すなわち、私たちは、死刑廃止論者のある種の「鈍感さ」に憤りを感じざるを得ないのである。
私自身は死刑廃止論者である。しかし『これが答えだ!』などに書いてきたように、条件つきである。条件とは、被害者遺族の感情的回復を支援するような社会的装置の整備と一体になったかたちで、死刑廃止を実現するべきであるということだ。
欧米では、宗教者たちが死刑廃止運動を担う。しかし彼らは同時に、死刑による感情的回復を図ることができない被害者遺族に対するケアを行なってきた。犯罪加害者に罪を悔い改めさせ、悔い改めた加害者と被害者遺族のコミュニケーション機会を作るなどして。
日本はどうか。「前提を欠いた偶発性」を馴致する宗教装置のない日本では、とりわけ、被害者遺族の感情的回復が重要視されなければならないはずだ。にもかかわらず、鈍感な人権論者が、誰でも言える死刑廃止論の理屈をぶっているだけではないのか。
まずは、被害者やその家族の感情的回復にどんな手立てがありうるのかを徹底的に模索する責務が、死刑賛成反対の別にかかわらず私たちの側にある。そのことに鈍感な人権論者が、「加害者人権ばかり重視する」と批判されるのは、理屈の正誤にかかわらず当然だ。
私たちは被害者の感情的回復と社会の感情的回復とのズレに注意しよう。社会成員の大半は犯罪で家族を殺されない。故に「社会が断固とした姿勢を示すべきだから死刑!」「人権の観点を重視すべきだから死刑反対!」で済む。犯罪被害者や家族はそれでは済まない。
彼らの一部は、犯罪加害者の悔い改めを要求しよう。別の一部は犯罪動機や原因の理解(に必要な情報公開)を要求しよう。別の一部は重罰化──死刑──を要求しよう。別の一部は犯罪率や再犯率を低下させる施策を要求しよう。別の一部は宗教を要求しよう。
これらの中の特定の選択肢を要求している犯罪被害者や家族が、別の選択肢が実現することで、代替的に癒されることもあろう。そういう代替選択肢の模索活動のなかに、死刑廃止運動が位置づけられなければならない。私はかねてそう主張しつづけてきた。
細かいことを述べれば、感情的回復に資すると見える重罰化が、再犯率低下とは逆方向に作用したり、被害者や家族の感情を逆撫でするように見える刑務所や少年院の処遇改善が、再犯率の低下に貢献したりといった微妙な問題もあり、研究の蓄積が要求されている。
その点、本書は、現在の刑務所や少年院のシステム、刑罰や処遇のシステムが、再犯率を減らす真剣な工夫と無縁であることをも告発する。脳天気な社会防衛論と、脳天気な人権論との狭間で、被害者や家族の感情は置き去りにされてきた。2002年8月15日
藤井誠二『少年に奪われた人生』(朝日新聞社)に対する書評から一部抜粋
2007年5月13日日曜日
宮台真司の死刑観
死刑制度の社会学的考察
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